復活の記憶。震災の日。【雑記帳 あのときのこと】
こんにちは、ぷろまねと申します。本ブログはプロジェクトマネージメント職としての自身の経験をに基づいた、子供3人5人家族の家計管理プロジェクトの実践記(と雑記)です。
本稿は【雑記帳】になります。復活の記憶を書いてみます。
忘れ得ない記憶
ぷろまね。2021年3月11日をどう過ごしたかを書いてみます。
朝おきて
在宅ワークして(片目でブログ読み読み)
3時ごろ会社行って
8時頃に仕事が嫌になって
9時に今日は帰ろと思って
10時に家について
この記事書いてます
マジなんてことない日でした。
でも、特に誰も話はしないけど、ぷろまねみたいに、今日どう過ごしたか、記憶に残そうと思ってた社員はきっと多かったはずです。
10年前のこの日の記憶があるからです。
その日、うちの会社に、限りなく震度7に近い震度6強の揺れが襲いました(速報では7の表示)。震度6強ってどんなもんでしょうね。
こちらに書いてあります。(別ページで開きます)
当時の会社は耐震性が低く、建物はほぼ倒壊しました。
ぷろまねその時、小さな会議室で打ち合わせ中でした、最初は小さな小刻みな振動でした。ここで終われば、いつもの揺れだなと思えたのですが、この日はそうでは無かった。
それがずーーーと、弱まることなく
どんどんどんどんどんどん、終わり無く増幅していくんです。
だんだんと恐怖を感じる自分。
いつもは、揺れの後、社内放送で、今の震度は○○だよ。みたいのが流れるんですが、その時は「ただ今の震度サ、ブチッ!」放送が切れました。
皆、机の下に隠れましたが、一向に揺れは収まらず、大きくなっていくだけ、天井が落ち、空調器と配管が落下し、壁が崩れるのを目の当たりにした時、
「これ以上続いたら、・・・ダメかもしれない」
と思いました。
「早く終わってくれ」
必死に机の脚を握っていました。
揺れの大きさもそうですが、建物を半倒壊させた直接の原因はその継続時間の長さでした。永遠の2分です。
揺れが収まったあと、最初に感じたのは「生きてる」でした。
そのあと、皆もそもそと周りの安否を確認しはじめました。
そんな記憶。
そのあと余震にビビったり、駐車場は車がわちゃわちゃで歩いて帰るしかなかったり、さんざんな目にあいましたが、、
そんな記憶が社員全員に刷り込まれた日です。
復活の記憶
それから、会社は無期限のお休みになりました。日本も大変なことになりました。
もう、つぶれるかもしれんな、この会社。
なんつったって、開発拠点が崩壊してんだもんな・・
そんなこんなで、2週間後・・・
上司から電話で、「明日、出社」
と言われ、すごすご出社し、集合場所に集まりました。そうすっと、
会社の防災部隊の隊長が、携帯の拡声器で、何食わぬ感じで
「えー、パソコン回収したので、各自 自分のものを確認してください」
「えー、制限付きですが、テスト環境を整備しました」
「えー、安全が確保されたスペースを用意したので、明日から業務再開してください」
なんと、
震災の後すぐに経営陣が対策本部を設置し、管理職で防災部隊を結成して、自分らが休んでた間、余震が続く中、足の踏み場もないところを、不眠不休で仕事場の確保をしていたらしい。
そんで、
「えー、この会社は復活します。必ず復活します。最速で復活します。我々の製品を待っている お客様の期待に応えます。なので、皆さん鋭意努力してください」
みたいなこと言われたと思う。
確かにこんなにはやく業務再開したことはニュースになったんだよな。。
あんときは皆、心に炎がついていたと思う。
で、今。
それから、会社は大改造というか作り直し。年がら年中 工事車両が出たり入ったり。工事現場の隣で仕事してました。
で、今の職場は新しい。快適でもある。あくまで建物がです。
でも、のど元過ぎても熱さは忘れない
と思いたい。そんな10年後の今日でした。
以上です。
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